33歳で死ぬつもりでした。10代の頃は。
理由としては「ストレスのない好き勝手な生き方をしてればそのぐらいが限界なんだろうなぁ」「その年齢で死んだ有名人が多かった」といった軽い感じのモノです。
ところが「ストレスのない好き勝手な生き方」しつつこの歳(44歳)まで破綻なく生きてこられました。これは父、母、兄の援助と、運の良さのおかげでした。色々感謝です。
今年の1月44歳になり「流石にそろそろ死ぬか~」となりました。若い頃「33歳ぐらいで死ぬ」とはちょぼちょぼ話していましたし、33の次のキリ番的な44になってそこら辺のオチもつけたかったし、不摂生を信条としていたので身体にガタが来ていましたので。
それはともかく44歳が近くなり「1月23日誕生日過ぎたら死ぬか~」と思ってたんですが、その年の1月から「アイドルマスターシンデレラガールズ」という自分にとってとても好ましいアニメーション作品が放映開始され「この作品の最終回を見届けてから死のう」と決めました。
想定外だったのは当初2クール(半年)で6月に終わる予定であったこの作品が、分割され10月頭に終了になり、更に製作スケジュールの変更で最終回が2週間延長となった事でしょうか。つくづく「アイドルマスターシンデレラガールズ」には延命させられました。
正直12月発売のBDに収録される未放映の話も見たかったのですが、流石にずるずる死ねなくなるのでそれは諦めました。
これを書いている時点でかなり死が近づいてきましたが自分が決めていたってこともあり、精神状態として特にプレッシャーみたいなものはほぼありません。ちゃんと無事に死ねるかな?という不安はありますが。
これは幼少の頃からの感覚と自己暗示的な刷り込みというのもあるのかな?と思います。
幼い頃から「なんで生まれてきちゃったんだろう」という感覚がありました。自分には一般的にある「生まれてきて良かった」的な生の喜びというモノが元々希薄でした。
生い立ちとしては特に不幸な環境にあったわけではありません。というより家族、身体、裕福さといった意味では客観的に見れば幸福と言って差し支えない恵まれた環境で育っていました。
ですが自分自身の感覚、主観においては生まれて生きていくことがもうすでに多大な負担で、上記のような客観的に幸福と判断されることも、その負担を軽減することがあっても収支をプラスにすることなど絶対にあり得ないほどの差がありました。
つまり自分の人生は最初の時点で収支は赤字だったのです。ですので方針としてはその赤字をいかに軽減するかが人生の目標となりました。「いかに気楽に苦労なく楽しく生きていくか」これが自分の生きる意味だった訳です。
反対に言うと「苦労やストレスのある生き方になるなら生きている意味は無い」つまり赤字が増えるような生なら終わらせるという事です。だからそろそろ気楽に生きられなくなるようなので死ぬわけです。
こんな事を幼少の頃からずっと考えていましたので、生への執着と死への忌避感が他の大多数とはズレてしまったのだと思っています。
子供の頃から疑問だったのは「若い頃苦労して頑張れば老後は安心して迎えられる」的な一般常識です。
気力体力外見が充実している若い時分に好きなことを我慢して、それらを失った老人になってから安寧を得るより、若い時分に好き勝手に楽しく暮らして老人になる前に人生を終えた方が収支的にお得なのでは?
また若い頃したくもない苦労したあげく、老人になる前に事故に遭ったり災害に遭って人生終わったらかなり悲惨な気がします。
そんな損得勘定がずっとありまして、それに沿った人生を歩んできましたので予定通りそろそろ死ぬわけです。
もちろんこの自分の価値観が普遍的でも絶対的でもないことは理解しています。普通であれば「若い頃頑張って、結婚して子供を育て、責任を果たし引退し長生きする」こちらの方が人間、生物として正常な価値観であると思っています。
ですが自分にとってはその普通の価値観はどちらかというと苦痛を覚えるものでした。その価値観に従って生を全うする人に尊敬を覚えますが自分はしたいとも思わないわけです。
ストイックに努力して活躍するスポーツ選手や芸能人や学者を尊敬はしても、じゃあ自分はなりたいか?と問われれば別になりたいとは思わないという人も多いでしょう。そんな感じです。
グダグダ書いてきましたが、つまるところ述べたいこと伝えたいことは自分は「絶望によって死ぬ」のではなく「予定の通り死ぬ」というか「幸運に見舞われ予定以上に長生きして死ぬ」という事でしょうか。
今俺が死ぬことによって迷惑を掛ける人は居るとは思いますが、それに引きずられるとズルズル死ねなくなるので申し訳ありませんがご迷惑おかけします。
父はことさら家族愛の深い人なので俺が死んだことで心労をかけると思います。すみません。俺が想定を超えてこの歳までお気楽に楽しく生きていけたのは父がいたからこそと思っています。
母も優しい人ですので俺が死ぬことで色々大変だと思います。更に俺の今後のことなどを色々考えて頂いていた様子でしたし、老後の面倒を見るというご希望にも添えず申し訳ありませんでした。
兄も仕事の手伝い完遂出来ずに申し訳ありません。最期になるので僭越ながら申しますが性格などから独立の仕事は向いていないと思います。路線の変更も考慮してみてはいかがでしょうか?
他の姉妹、甥姪みんなこれからも楽しく元気に暮らしていけることを願っています。
皆さんへの最期のお願いとしましてはもし自分が今回死にきれずに植物人間状態になったりしたとしたら、本人希望として延命処置などはやめて下さい。
基本この遺書的なものは酔っ払いながら記述していますので支離滅裂になっていると思いますが、まぁシラフ時に書く気にもならないのでご勘弁の程を。
それでは。
追伸・部屋に残った遺品は適当に処理してください。売るも良し捨てるも良し。
おまけ(※遺書に組み込もうとしたけど面倒になった草稿部分)
人間は文明の発展にしたがい「欲望を理性である程度抑える」というのを是とし進めていたにもかかわらず「生存に対する欲望」はかなり無制限に「本能の赴くまま」を許されていた。
だが「性欲」「睡眠欲」「食欲」がそれぞれ時代の移り変わりによって色々と「制限」をかける事が是とされてきたように、「生存欲」も時代の移り変わりで今のような「聖域」ではなくなってくるのではないか。
他の欲望のように「生存欲」も幼少の頃の刷り込みをもって制限することが常識となれば、現在のようなやりたい放題の「生存欲」が他の本能と同様にある程度忌避される世の中になる気もする。
※2015/10/20に作成