一と二人で暮らしていた時代、自分は将棋連盟で働いていました。
それまでほとんど将棋に興味を持たなかった一ですが、アパートで自分の仕事における悩みや愚痴などをよく聞いてくれました。
そういう事もあって、将棋界の知識も身につけ、色々と詳しくなりました。
そして、東中野に来て約半年後となる1994年4月に、自分は「将棋マガジン」という雑誌の編集部に異動となりました。
別に「将棋世界」という連盟機関誌があった事もあり、ある程度自由がきく雰囲気がありました。
ちょうど「羽生ブーム」が社会現象になり、これまでにない人たちがプロ将棋に注目するようになりました。
その中に、漫画タッチでプロ棋士の似顔絵を描いて投稿する人たちもでてきました。
幸い、着任早々、読者コーナーの担当を命じられたので、この投稿を活かそうと考えました。
しかし、これまでのパターンにないページデザインをどのようにすればいいか、雑誌編集初心者のうえ、デザイン関係が苦手な自分には分かりません。
というわけで、レイアウト用紙をアパートに持ち帰り、一に知恵を借りながら、デザインを考えたものでした。
そうやって作った新デザインですが、投稿がさらに増えて倍率が上がってしまったため、数ヶ月で変更する必要が生じました。
そこでまた、一の助けを借りて、再度アパートでレイアウトを行ったものでした。
また、投稿に対する「編集部からのコメント」の入れ方なども、色々と一に相談したものでした。
一度、記事の執筆をお願いしたこともありました。
当時は、新型ゲーム機を各社が出したこともあり、家庭用ゲームで遊べる将棋ソフトが多数発売されるようになりました。
我々もゲームが好きだったこともあり、それの特集記事を作ることにしました。そして、一にゲーム評を頼みました。
この特集においては、「将棋はあまり指さないけれど、ゲームについての知識がある人」が必要でした。その点、一はうってつけだったのです。
一の書いてくれたゲーム評は期待通りの読みでがあるものでした。
残念ながら、雑誌のほうはちょうど今から20年前の1996年8月に廃刊となりました。
ただ、一に手伝ってもらって作り上げた投稿欄のおかげで、それを愛用していた美加さんと出会い、現在に至っているわけです。
その点でも、一に感謝しています。
その後、結婚に伴い、別々に暮らすようになり、必然的に一は将棋と縁遠くなりました。
そして、自分は将棋連盟の公式サイトの運営担当となり、初心者向けの入門ページを作りました。
誰かがネットでそのページの事を褒めていたそうです。それを知った一は、飲みに行った時に、その話をしてくれました。
ひごろ、話すことはなかったのですが、自分の仕事ぶりならびに評判を気にしていてくれていたわけです。
コンピュータ関係においては、自分が一の「弟子」のようなものでした。それもあって一は、自分のコンピュータスキルについては、常に辛口でした。
その一に誉めて貰ったという事もあり、いろいろ不安もあったこの公式サイト運営に自信が持てたものでした。これも懐かしい思い出です。
あとちょっと話しがずれますが、荻窪にいた時、友達に囲碁を教わりました。
相手が欲しかったので、一にルールから教えたのですが、あっという間に追いぬかれ、何度やっても一に勝てないので、囲碁はすぐやめてしまいました。
これもまた懐かしい想い出です。