一とプロレス


 一が、20代から30代にかけて大好きだった事の一つにプロレス観戦がありました。
 きっかけは、1990年台前半の深夜に二人で見たプロレス中継と、その頃に連載された「プロレスファン漫画」でした。
 東中野で二人暮らししていた四年間では、ゲームと並び、プロレスは二人で共有する重要な趣味でした。
 特に好きだったのは、全日本プロレスのジャイアント馬場選手と三沢光晴選手(三沢選手はのちに全日本プロレスを退団し、新団体「NOAH」を立ち上げ)でした。

 東中野時代は、ともにかなりハマっており、プロレス雑誌を全て購入していたほどでした。
 はじめて、二人で全日本プロレスの試合を観戦に行った時の事はよく覚えています。三沢選手が入場するときに、観客が皆で、「ミサワ、ミサワ」と名前を呼ぶのですが、「これがやりたかったんだ」と言って嬉しそうにコールしていたものでした。
 自分が結婚して幕張本郷に移ったあと、1999年にジャイアント馬場選手が病死した、という事がありました。その時は、恵ちゃんがお葬式の際に言及したほど残念がっていました。
 ただ、それ以降、一のプロレスに対する熱意は増す一方でした。試合に行く回数も東中野時代より増えました。
 特に、三沢選手が率いる「NOAH」が武道館で興業を行うときは、必ず行くようにしていたようでした。
 自分は結婚後、それまでよりはプロレスへの興味が減ったのですが、たまに、一に声をかけられて、武道館で一緒に観戦した事もありました。

 ただ、2000年代半ばになり、三沢選手をはじめ、主力選手に衰えが見えるようになり、必然的に、「NOAH」のプロレスもつまらなくなっていきました。
 そういう事もあり、一もだんだんとプロレスへの関心を失い、観戦にも行かなくなりました。
 そして、2009年に、三沢光晴選手が試合中のリング禍で46歳で死亡する、という事件が起きました。
 これは、自分にとってもかなりの衝撃的な出来事でした。
 その数日後に、父と一と三人で銀座で食事をしました。とりあえずお開きになった後、どちらかともなく、二人で飲もう、という話になりました。
 当然、話題は三沢選手の事になります。一は、自分が三沢選手のプロレスから色々なものを貰っていた事、そしてそれに対し、何らお返しすることができなかった、と言い、心底悲しがっていました。
 あそこまで、悲しんでいる一を見たのは、幼少時、祖父が横浜で脳溢血で倒れ、その姿を見て帰った時以来でした。
 その後、三沢選手の葬儀に有明まで行ったと聞きました。そして、それが一とプロレスの話をした最後になりました。

 ジャイアント馬場選手と三沢光晴す選手の死をあれほど悲しんだ一です。
 自分が死んだら、家族や友人が悲しむ事は、十二分に承知していたはずです。
 にも関わらず、死を選んだわけです。それについては、残された人の悲しみを理解しながらも、自分の決めた生き方を貫いた、と解釈しています。
 いずれにせよ、高輪・東中野で一と二人でプロレス観戦を楽しめた事は、忘れられない思い出になっています。